■学校創立60周年記念誌『若き希望に~稚内南中の理屈のない教育実践~Q&A』より

Q:「南中ソーラン」で南中は立ち直ったというのは本当ですか?
A:そんなことは、まったくありません。

 通称「南中ソーラン」が誕生し、今年で20年目になります。踊りは全国に広がり、学校はもちろん、幼児から年配の方まで、地域やサークルにもその輪が広がっています。
 こうした中、「南中ソーランは荒れの中で生まれた」、「ソーランで学校が良くなった」という間違った話も広がり、正確な事実を書き残して置くことが大事になっています。

事実と映画は違う

 次の文章は、南中も協力し稚内全体で応援し、平成8年封切りされた南中が舞台の映画パンフレットの文書です。映画と事実は違うということを映画制作の側から明確にしています。

「本映画『稚内発 学び座』の原作となった『父ちゃんの海』は南中40周年を記念して平成元年8月に、稚内市立稚内南中学校と同校の父母と先生の会が共編された出版物です。同書には、それまでに至る父母と教師が一体となって地域ぐるみで、『荒れ』の問題に取りくんだ昭和55年から10年間に及ぶ記録が掲載されています。…(略)…そこには、親も教師も、子どもとともに真剣に学びあって育つという、『共に育つ学びあい』の歴史が勇気を持って描かれています。実は現在の『南中ソーラン』が生まれるのは、その後。平成4年夏に伊藤多喜雄(いとうたきお)さん、秋に春日壽升(かすがじゆしよう)さんに出会ってからのことだそうです。…もちろん、長い地域ぐるみの大人たちの『共育事業』こそが、この映画のテーマです。しかし、それらが地道な『「根っこ』や『幹』や『枝』だとすれば子どもたちの『南中ソーラン』は、まさしく『花』だと申せましょう。そんな『花の種たち』が、日本全体で咲きたがっているに違いない…」「本映画『稚内発 学び座』の原作となった『父ちゃんの海』は南中40周年を記念して平成元年8月に、稚内市立稚内南中学校と同校の父母と先生の会が共編された出版物です。同書には、それまでに至る父母と教師が一体となって地域ぐるみで、『荒れ』の問題に取りくんだ昭和55年から10年間に及ぶ記録が掲載されています。…(略)…そこには、親も教師も、子どもとともに真剣に学びあって育つという、『共に育つ学びあい』の歴史が勇気を持って描かれています。

 荒れは昭和59年がピークの約3年間。再生は「昭和60年12月に、立ち直りを宣言する学年集会を『3年生学年協議会』の名で開催…この前後から恐喝や暴力は姿を消し『どこでも、いつでも安心して生活できる』中学校生活を卒業直前に子どもたちが自分たち自身の手で取り戻す」(「父ちゃんの海」)と記録され、「ソーラン」の文字はどこにもありません。

Q:では「南中ソーラン」以前の「ソーラン」とは?
A:昭和61年の文活が最初。再生とは関係がない。

 書籍や映像では、「南中ソーラン」誕生の歴史がドラマチックに脚色され表現されています。荒れて立ち直った学校と、躍動感あふれるソーランの踊りが結びつくと、とても劇的な物語が生まれるからでしょうか。再生のドラマも事実なら、踊りが感動的なのも事実です。しかし、この2つには、ソーラン誕生ではまったく関係がありません。

事実と物語は違う

 事実とは異なる映画が、「これは、実際にあった荒廃からの真実の再生物語である」(映画「稚内発 学び座 ソーランの歌が聞こえる」ポスターから)と宣伝され誤解が広がるのは残念ですが、教育と違う芸能、楽しませるエンタティメントだから仕方のないことかもしれません。
 しかし、私たちには、学校の荒れから再生の事実と教訓を学び、次の世代がそれをきちんと受け継いでいく責任があります。「ソーランで南中は良くなった」という事実と違う歴史、いや嘘は、南中の教育に関わった先生や保護者は決して口にしません。当時の生徒が事実を一番知っています。それは、大変に厳しかった学校再生の努力や誇りを否定し、さらに学校が落ちついて「南中ソーラン」を誕生させてきた努力も否定するという、2重の誤りを生むからです。

初めての「ソーラン」の発表

 第2回文活(昭和61年)は、吹奏楽部と合唱部、劇(「伽羅先代萩(きやらせんだいはぎ)」)に加えて、次の「郷土芸能」を初めて発表しました。
・「虎舞い(とらまい)」ー宮城県の郷土芸能。航海安全と大漁祈願。町内の方の指導で虎、囃子(はやし)、鳴子(なるこ)を。
・「子たたき音頭(にしん沖揚げ音頭から)」ー網の数の子を落とす歌を男子で。 
・「沖揚げ音頭(にしん沖揚げ音頭から<ソーラン節>」ー女子の歌、男子の踊りで。 
 第1回文活では「学校再生の土台ができたことを確認」(「父ちゃんの海」)し、生徒に大きな自信を育てることができました。第2回目は学校がすっかり落ち着いた中で、「南中建設の方向を確かめあう」(「第3回文活パンフレットより)ものでした。それは新しい挑戦であり、大きく言えば文活を含めた地域ぐるみの壮大な学校づくりであり、文活に限って言えば「郷土芸能の伝承」がそれにあたります。先生たちに、指導した経験者が一人もいない中での出発でした。

新鮮な「ロックソーラン」

 正調(せいちよう)のソーランは、漁業が基幹産業の稚内、特に南地区は水産都市稚内の漁業関係者の方々も多く、親や地域の方々には大変好評でした。こうした郷土芸能を南中生が総合文化センターで真剣に、そして立派に踊る姿も、前年度に引き続き満席にしていただいた方々に大変好評でした。 しかし、生徒には不評でした。リズムもテンポも歌詞も古臭いからです。先生たちも若く、教育的な意味を何とか理解しようとしても、「こんなことでいいのだろうか?」という不安が消えない中での指導でした。こうした教師主導の踊りは生徒には苦痛になっていました。
 こうした中、何とかソーランをよいものにできないかと悩んでいた先生たちはテレビコマーシャルでそれまでとはまったく違うソーラン節を耳にしました。平成3年の時です。身体が自然に動き出すような曲調は、「これは子どもに間違いなく受ける」と直感できるものでした。しばらくして、それは伊藤多喜雄という民謡歌手が歌うロックソーランだとわかりました。

生徒と一緒に考える振り付け

 踊りの指導は大変ですが、当時は「南中の若い先生なら、郷土芸能の一つや二つは指導できて当然。それは先生として一生役に立つ教育技術になる。」と言われていました。大好評な郷土芸能でしたから先生も努力できました。1学期に郷土芸能「学び座」の指導者会議で大まかな演目を決め、太鼓の作曲や民舞の教本ビデオによる先生自身の勉強を2学期前半で行っていました。

振り付け先生と生徒の共同作業で

 正調ソーラン節には教本があっても、ロックソーランには無く、ソーラン係の先生たちがニシン漁一つ一つの所作から踊りの振り付けを考え出しました。生徒の意見で工夫されることもありました。先生と生徒が一緒につくるこうした柔軟さは、踊り以外でも大事なことですね。
 この新しい曲と新しい振り付けのソーランは第6、7、8回文活で発表され大変な評判を呼びました。「前より良いものを」という生徒と先生の熱意が毎年変わる振り付けとなっていました。
 Tシャツにジーンズの斬新なソーランは大評判を呼びました。当時人気の男性路上パフォーマンス集団である「一世風靡(いつせいふうび)セピア」のビデオなども見て研究したそうです。


Q:「南中ソーラン」はどんなふうに誕生したのですか?
A:「民謡民舞大会」出演の時の踊りからです。

 このTシャツにジーンズのソーランに対して、伊藤多喜雄さんは次の感想を寄せてくれました。

「ソーラン節」の踊りに南中生のがんばりを見た    伊藤 多喜雄 
 最北の稚内を舞台にテレビの番組をつくることが決まったとき、僕の「ソーラン節」を踊る南中学校の文化活動発表全の話を聞いてビデオを見せてもらいました。確かに全国で「ソーラン節」を踊る中学校はありますが、あの迫力と力強さにはびっくりしましたね。しかも僕の歌でですよ。もう早速実際に踊っているところを見ようと思って南中学校を訪れました。生で見るとまた違うんですね。背中がゾクゾクとして、これは僕のコンサートを応援してもらおうと決めたんです。
 文化活動発表会の「ふるさとに学ぶ」というのがいいじゃないですか。それぞれの街に埋もれた文化や人がいるんです。今日までふるさとを支えてくれた人達なんです。そして、それに応えようとする若い人達のエネルギーがある。もちろん、この稚内の街も同じです。今回の取材でそれがよくわかりました。その一つが南中学校のみなさんのがんばりであり、文化活動発表会なんですね。だから、
 今年の文化活動発表会も是非成功させてほしいと願っています…(略)…

(「平成4年 第8回文化活動発表会」の案内パンフレットから)

 この伊藤さんの激励は、「南中ソーラン」誕生前のソーランへの感想です。ここで言われている「迫力と力強さ」は、現在の「南中ソーラン」にも続いている持ち味ですね。
 続いて、伊藤多喜雄さんの紹介で、南中に来ていただき指導していただいた舞踏家の春日壽升(かすがじゆしよう)さんからの言葉を掲載します。

  文化活動発表会に期待します    春日壽升 

 私がはじめて南中学校を訪れましたのは、今年元旦に放映された「第9回民謡民舞大賞」に、子どもたちの出演が決定した時でした。この番組への中学生のノミネートははじめてのことでしたし、それにもまして「伊藤多喜雄さんの唄に合わせてソーラン節を踊る中学生がいる。」というニュースには、たいへんな驚きを覚え、少しでも応援できることがあれば、との思いに駆られたのです。
 以来、南中学校のみなさんとも、みなさんの街稚内とも、おつきあいが続いていますが、その時、ほんの数日でしたが、子どもたちと出会えた感激は忘れません。最北の地稚内でも子どもたちが地域の唄を踊っているんです。未来に向かって、地域を大切にし、より明るくしていく南中のたくましい子どもたち。きっと、地域にも大きな励ましになることでしょう。南中の子どもたちにも、そんな子どもたちを生み育てたこの稚内の街にも、とても豊かな可能性を感じます。
 南中学校のみなさん、「第9回文化活動発表会」の成功をお祈りしています。そして稚内の街を愛し、いっそうの伝統づくりにがんばってください。応援しています。
(「平成5年 第9回文化活動発表会」の案内パンフレットから)

 お二人からの言葉「ふるさとを支えてくれた人達…それに答えようとする若い人達のエネルギー」(伊藤さん)、「地域を大切にし、より明るくしていく踊り」(春日さん)は、当時の南中の新しい伝統づくりに対する大きな激励です。同時にそれは、今も変わらない、ソーランを太く貫く気高い精神だと思います。

全国的に注目を浴びて

 平成4年、初めて参加した「民謡民舞大賞全国大会」で奨励賞を受賞し、平成5年の同大会でグランプリ(内閣総理大臣賞)を受賞しました。テレビで放映されたこともあり、また中学生のエントリーも初めてで、番組中で過去に荒れた中学校だったというナレーションも入り大きな反響を呼びました。この時期、全国的に中学校が荒れていたこともあったからです。
 この2回の「民謡民舞大賞全国大会」に参加した時の踊りが、今に伝わる「南中ソーラン」です。伊藤さんの曲を元に、ソーラン担当の先生たちが生徒とともに振り付けを考え文活で発表し、春日さんの指導で完成させた踊りです。
 この大会の時に初めて着た衣装が今も変わらない濃紺の舞祝着です。


Q:「南中ソーラン」という名前の由来は?。
A: 南中以外の方が「南中ソーラン」と呼んだのです。

 南中では、正調の時も、Tシャツの時も、その踊りは、「ソーラン」あるいは「ソーラン節」と呼んでいました。話の都合で南中以外の方々が、「あの南中のソーランは~」というふうに言われることはあっても、南中の側から「南中ソーラン」と呼んだことはありません。ソーランは、誰が歌おうと踊ろうと、あの歌詞とリズムであればソーランだからです。
 1年に1度、総合文化センターの大舞台で発表し、親や地域の方々、仲間から拍手を受けることが一番大事なことでした。文活以外でソーラン踊ることはまったくありませんでした。

全国、全道の注目を浴びる中で

 しかし、「日本民謡民舞大賞」でグランプリを受賞してから、知名度は一気に上がりました。 学校には、無数の電話やファックス、手紙を通じた激励や振り付けや衣装に関する問い合わせ、中には「これがあの踊り発祥の学校ですか」と訪ねられる方が今もいらっしゃいます。
 学校の外で符帳のように使われていた「南中ソーラン」の呼称が、いつの間にか通称となるのに時間はかかりませんでした。それは、全国の学校現場で踊られるようになったからでしょう。南中以外が、この名前を必要としたのです。それまでのソーランと区別する形で、自然発生的に「南中ソーラン」と呼ばれ始めます。
 逆に、この何の変哲もない中学校名を冠した名称が、先生と子どもで感動をつくる、学校と親と地域の協同で子育てをすすめる、こうした文化を普通の中学校が発信できるという教育や文化の本質を、感動と勇気を持って全国に広げていることも大事な側面でしょう。
 「南中ソーラン」は今や固有名詞ですが、全国では南中とそれぞれの学校が、自校の名前を冠した「○○ソーラン」を自校の誇りとしているのは大変に素敵です。南中で生まれた文化が、その名称とともに全国に広がったのは大きな誇りです。南中では第16回文活(平成12年)から、現在の踊りを「南中ソーラン」と呼ぶようになりました。